このごろ思うこと
このところ 、変わった事件がしばしば報道される。
その度に、識者と称する人たちが出てきては、様々な意見を述べる。
これには、なるほどと納得することもあるが、あまり首肯けないことも多い。
そもそも、私見を述べるということ自体、本来そういうものなのだろう。
だから、自分の意見を言ったあと、ふっと空虚感や自罰感におそわれる。
他人と話すとき気がつくことなのだが、いつも心は論理的であろうと
努めている。
きちんと分かりやすく話せているだろうか、筋は通っているだろうか、と。
つまり、頭の中にある結論の、正当な理由になっているだろうかと、
いつもそう考えながら喋っているようなのだ。
そういうふうな考え方って、すごく大人な考え方だ。
例えば中学生のころ、ビートルズがいた。
わけもなく好きだった。
和製グループサウンズや加山雄三は、わけもなく嫌っていた。
外の世界に対する単純なあこがれに過ぎなかったのかも知れない。
(だが、チューリップと吉田拓郎をきらわなかったのにも、特にわけはない)
生活していくのに理由が必要になったのは、いつからだろう。
人と出会うのに名刺が必要になったのは、いつだっただろう。
時間がないと初めて気にしたのは、いつのこと。
他人の目を見つめるのに苦労しなくなったのは、いつ。
あれはいつのこと、と言い始めたのは、いつのこと。
理由もなく物事が起こったり、終わったりはしない。
物事には、必ずわけがある。
理由さえ分かれば、解決の糸口は見つかったようなもの。
私たちの心の中の、論理的部分は、そう言う。
だが、本当にそうだろうか。
宇宙の果てって、どうなってるの。
宇宙の始まりって、どうだったの。
心って、どこにあるの。
なんのため。
思い出してみれば、身の回りは分からないことで溢れてる。
試みに、理由を問うことをやめてみよう。
わけを探すのを中止してみよう。
他人にも、そして自分にも。
それでも気になることがあったら、心のひきだしをひとつ準備してみよう。
ひきだしがなければ、袋でもいい。
「分かった」ひきだし、の隣に、もう一つ。
「分からない」ひきだし、を作って、
そこにしばらく放って置いてみるっていうのは、どうだろう。
(ついでに、おまけにもうちょっと)
「済んだこと」袋(それはもう、終わったことよ、と仕舞っておく)や、
「まだ先のこと」(それはまだまだ先のことよ、と仕舞っておく)袋も、
作っといたら、さらに便利なことだろう。
<追記 2000年5月8日>
理由
2000年3月26日
鹿児島の梅雨は長い。
始まりにちょっと降って、中休みの後、ドッと降って明ける。
明ければ、ジリジリ照りつける太陽。
車の屋根では、目玉焼きを作ることさえ朝飯前(多分)。
この前聞いた話、「それでも東京よりは過ごしやすい」と。
「東京は人いきれで、暑さが鬱陶しい」
そりゃそうだ、
日本人の十人に一人は東京で生活しているわけだから、
人いきれも尋常ではない、そりゃそうに違いない。
だが、こと日射しについて言うならば、鹿児島は格別だ。
旅行帰りの夏、空港のビルから出た途端、目の芯がグラッと揺れる。
「太陽がいっぱいだ」なんてものじゃない。
太陽の矢に串刺しにされてる感じだ。
歩く人も、看板も、空も、様々な景色も、
みんな白く吹っ飛んで、ただ日射しに目がくらむ。
噴きだして溢れている。
この日射しのなかを、どうやって歩くか、だが。
若い人は日射しのなか、空を見上げ、歯をむき出して笑っている。
老いた人は日傘をさし、あるいは帽子を目深にかぶり、日陰を歩む。
私はカバンから、サングラス(度入りの)。
それでも、日射しが弱まるまで待ってしまうことが多い、
かな‥‥‥。
刺激が欲しいときがある。
刺激から身を避けねばならぬときもある。
気合いを入れるときがある。
気晴らししたいときもある。
虎穴に入らずばならぬときがある。
寝て待つほうが良いときもある。
引きすぎた弓。
張りつめた弦。
研ぎすぎた刃。
かたく締めすぎた螺子。
日射しとサングラス。
サングラス
2000年7月25日
この号が出ているころ、イラクの近辺はどうなっていることでしょう。
それは私達の身のまわりにもきっとなんらかの変化を急速に及ぼしていることになるのでしょう。
高校を卒業して大学に入学するまでのまぎわ、ちょうど今頃、きれいに刈り揃えられたくさむらに寝そべり、風に吹かれ流れゆく雲をただぼんやりと半日ほども見ていた記憶があります。
大学の夏休み、夜空をゆっくり移ろう月の行方を小一時間も眺めていた記憶もあります。
でも近頃は、桜島を白く彩った雪の記憶はありますがその消えていく様も知らず、気がつけばわずかに残る雪は山襞に細長い化石の指のような形をしているばかりです。
砂浜に影をのばす崖下に膝を抱えて寄せては返す波を飽きもせず眺めていたのはいつのことだったのか、もう忘れてしまいそうです。
そうやって降り積もりゆく時を慈しむ術を見失ってしまっているのは一人私だけではないらしいのですが、この実感が良いことなのかどうか、我が身にとって大切なことなのかどうか、どうもうまく判断できないでいます。
時を慈しむ
2003年2月
某月某日
暖かな雨まじりの南風に乗って春がくる。
梅も桃も散り加減。
桜はまだらしい。
進学、進級、卒業、就職、転勤、引っ越し、世間は騒がしい。
このざわめきは強く頭に響く。
鬱陶しくて言葉も出ない。
胸苦しさに食欲もない。
苛つきは眠れぬ夜にはなおつのる。
春にもいろいろあるけれど、こんな春では困ります。
これから暫く、うつ状態の発症しやすい時期です。
春のざわめき
2003年3月
某月某日
若いころからの肩こり症である。
時に頭痛、吐き気、眩暈も稀ではなかった。
原因は運転、筆圧強く書くせい、そんな風に考えていた。
学生時代のノート以来、万年筆で書くように心がけているが治らなかった。
厄年近く、追突されること数回、挙げ句に突発性難聴で入院する羽目になった。
ただ横になってばかりのある日ふと気づいた。
趣味を失っている!
身体を動かしていない!
原因はストレスなのだ!
退院して数日、一念発起スイミングスクールに入った。
以来、泳ぎは大切な趣味である。
重症の肩こりは減った。
ストレスと趣味
2003年3月
ストレス多き時代の、ストレス多き春がやってくる。
ストレス障害の初期症状には、睡眠障害、食欲低下、などとともに様々な身体症状がある。
倦怠感、頭痛、肩こり、これらの身体の症状に気がつき、一通りの検査を終えて身体的異常がなければ、それはストレス障害である可能性が高い。
ストレス障害に対処する方法、つまりストレス解消法の大切なひとつは複数の趣味を持つことである。
筋肉(運動系)と脳みそ(思考系)、
あるいはグループ(コーラス、サッカーなど)と一人(読書、スイミングなど)というように。
春とストレス
2003年3月
春は出会いと別れの季節です。
遠方に引っ越していかれるKさんから頂いたこんなメッセージをご紹介します。
<Kさんからのメッセージ>
前略
先生の病院に通院させていただくようになって、丸一年半が経ちました。
決して治療に対して熱心な患者ではなかった私の言う事にいつも優しく耳を傾けて下さり、本当にありがとうございました。
今年に入ってからは、何かと御迷惑ばかりで、そういう自分に苛立たしさを
覚えながらも、どうすることも出来ない現状に泣いてしまう事も少なくありませんでした。
それでもそういう自分と向き合い続けて、失敗ばかり繰り返しながらでも、どんなに辛い夜にもとりあえず朝は来るのだ、この世に無駄なものはあまりないらしい、と思えるようになったのは、先生のおかげだと心から感謝しています。
ありがとうございました。
これからもまた泣いて失敗もすると思いますが、自分なりに頑張っていこうと思います。
先生もどうぞご自愛下さいませ。
H15.4.-. K
「待つ」事が上手になりつつあるKさん このメッセージから私も一杯エネルギーをもらえました。 ありがとう。
出会いと別れ
2003年4月
十年もいや二十年も前から、探していました。
音楽に詳しい人に尋ねてみたこともありました。ヴァイオリンも、ピアノも、オーボエもホルンもフルートも、ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲さえあるのに、なぜチェロだけがないのか?
彼が言うには「親しい人のなかにチェロの得意な人がいなかったんでしょうね」と。ふむ。ふむう。納得するような、しないような。(これぞ、まぼろし‥‥)
クラシックCD総合カタログを眺めても当然載っていないし。これはやはり無いのでしょうと。
思っていたら、見付けました、「レコード芸術5月号」輸入盤の欄に。
鹿児島市のCD屋さんでは取り扱っていないという。電話しました。
秋葉原の I 某電気ソフトワン。着くまでの待ち遠しいこと。
もっとも、完全にモーツァルト作というわけではなく、イッサーリス(チェリスト、イギリス人かな?)の姉(?)がモーツァルトの遺した断片から補作したものらしい。
それでも、ん~ん、薫りは充分。満足。ドキドキしながら聴くのは数年ぶりのこと。今でもまだ数日に一回は聴いています。
モーツァルトのチェロ・ソナタ
2004年5月17日